Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

幻想に遊ぶ人々 ―アルマイトの栞 vol.220

これを書き始めた今は、2015年の12月なのだけれど、書き終わる頃には年が明けているだろうと思うノロマぶりで、こんな状況で記す挨拶をどうしたら好いのか悩むが、ともかく、2015年もTetra Logic Studioを支えて頂き、ありがとうございました。そして、早速なのですが、2016年もTetra Logic Studioを宜しくお願いします。今は、いつですか?。自分でもワケが判らない最近のノロマな状況の原因の一つは、ちくま文庫の東雅夫『日本幻想文学事典 』をふと読み始めてしまったからで、それが遅々として読み進まず、よくよく考えれば、本書は「事典」で、事典を通読しようとする自分が阿呆なのだと気付く。

なにせ、この『日本幻想文学事典』には、「作家クロニクル」と題して、「明治から昭和まで総勢二百六十四人」の作家が生年順で掲載され、各作家の略歴や作品の傾向と代表的な幻想文学作品の解説が記されており、その内容を最初から最後まで通読してアタマに入れようと考えるのは暴挙だと悟り、先ずは各作家の略歴だけを読むことに決め、最初に掲載される1816年(文化13)生まれの河竹黙阿弥から最後の1935年(昭和10)生まれになる倉橋由美子や寺山修司たちの略歴だけ眺めた。すると奇妙にも、頻繁に「宿痾(しゅくあ)」の語が現れる。つまり「持病」だが、略歴中に「宿痾の肺結核により夭折」みたいな話が多く、一冊の本の中に「宿痾」の語をこれほど多く見たのは初めてだ。

登場する「宿痾」の多くは肺病の類で、「肺結核」「肺浸潤」などなどだが、これは時代背景が一因かもしれず、後年になるほど減り、その一方、時代に関係なく現れる「宿痾」が「薬物使用による精神錯乱」みたいな類や、「飲酒による妄想と幻覚」だったりして、ロクなものではない気がするけれど、じつのところ、あまり自分も他人のことを嘲笑う資格は無く、なにかと嗜好品に耽溺するのは彼らも自分も同類なのだが、とは云え、本書の中でダントツに危うい気がするのは、画家としても有名な村山槐多だ。「京都府立第一中学校。在学中はポオに心酔、グロテスクな仮面をかぶりオカリナを吹いては京の町を徘徊したという」。天然で、コレだ。負ける。いや、勝ちたいとは思わない。

幻想文学作品をモノにしようと望むなら、宿痾の一つか二つか、奇行の一つや二つをモノにしないと認めてもらえないような気分に浸ってしまうのだが、それならば、自分は幻想文学作品をモノにするほどの宿痾か奇行の類を抱えているのかと考えると、「宿痾の低血圧で早起きが出来ず」とか「宿痾の胃腸虚弱で本格タイカレーの店には入れず」とか「カフェインと煙草に耽溺し、ドトール通いがやまず、貧窮する」とかしか思い浮かばず、ダメである。弱すぎる。では、「宿痾の学校嫌いで留年を繰り返し、恩師の助けで辛くも一命を取り留める」は、どうか。「どうか」と訊かれても困るが。つくづく、自分は幻想文学の作家に向くほどヘンでは無いと諦め、ところで、今は、いつですか?。

雑記 | comments (0) | trackbacks (0) | このエントリーを含むはてなブックマーク

Comments

Comment Form

Trackbacks