Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

掲載される場所 ―アルマイトの栞 vol.204

「批評」と呼ばれるコトバが、どんな「メディア」に乗せられ流れていくのかと云う両者の関係性みたいな実態を、遠慮会釈なく、身もフタもないほどに暴いてしまった本が大澤聡さんの『批評メディア論 』で、本書の副題に『戦前期日本の論壇と文壇』と記されるとおり、取り挙げられる話題は戦前の日本国内の「批評」や「評論」の類だが、なにより本書を読んで驚くのは、戦前に国内で発行された『中央公論』とか『文藝春秋』などの各種雑誌や新聞を徹底的に読み漁って引用する大澤聡さんの資料探索の凄まじさで、この人の前にウッカリと古い雑誌など積んでおいたら、一冊残らず持って帰ってしまうのではないかと思う。

この本は「序章」と「終章」を含めて全7章で構成される総ページ数352にも及ぶ大作なのだが、序章の中で大澤さんが「章単位での単独完結が可能な構成にもなっている。必要や関心に応じて、どの章から読みはじめても障害がないよう配慮を施す。事前の予備知識も要さない」と書いてくれたものだから、調子に乗って「あとがき」から読み始めたり、膨大な量の「註」ばかりを眺めてみたりと、著者に対して失礼極まりない読み方をする自分で、あっちこっちのページを興味の赴くままにパラパラと開いていたら、奇妙なことに気付いた。どんな話題に及んだ場合でも、ほぼ必ず、「大宅壮一」が現れる。戦前の日本を舞台に評論家たちの活躍を描けば、大宅壮一が主人公の大河ドラマになる。

そして、著者の大澤聡さんが堂々と指摘する「論壇」の実態とは、「何を記述しているのか」よりも「どこに掲載されているのか」が重要な「指標」になると云う事実で、一般読者の立場の自分も薄々は感じていた事柄ではあるけれど、こうも遠慮なく理路整然と指摘されてしまうと、「やっぱりか」と思い、この実態は、例えばマンガ作品について「だって『少年ジャンプ』に連載だよ、スゴイじゃん」と読者が受け止めるのと全く同じことが「批評」や「評論」にも当てはまってしまうと云うことで、かつて『ガロ』に連載していたマンガ家を「ガロ系」と呼ぶが、評論家の間でも「あの人は中央公論系でしょ」などと会話が交わされているに違いない。どんなステータスを意味するのかは知らないけど。

しかし、大澤聡さんの論法でマンガ作品やマンガ雑誌を眺めると、なんだか色々とスッキリするのであって、マンガの場合でも読者は無意識に「掲載誌は何か」を気にしているし、マンガ家志望の人も読者と同じ感覚で原稿の持ち込み先を決めるから、少年マンガを描きたい人が『りぼん』へ原稿を持ち込むことは考えられず、やはり『ジャンプ』とか『マガジン』を目指すのだろうけど、その時点で画風は「鳥山明っぽい」可能性が高く、だが、その画風でも「大宅壮一を主人公にした戦前期の評論家たちの群像劇」だったら、『ジャンプ』での採用は難しいと思われ、編集者は新人マンガ家にアドバイスする。「さいとう・たかを風の絵に変えて『ビッグコミック』に行けばマジ売れますって」。

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