Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

字 ―アルマイトの栞 vol.161

ある時期、舞台公演のチラシだとか個展のDMだとかを知人から手渡される度に、そこに印刷されたタイトルの文字を見て、フォントの名前を云い当ててしまう原因不明の病みたいな症状に取り憑かれ、悩ましい思いをした。「フォントはChicagoだった」などと憶えているのに、タイトルそのものを憶えておらず、告知をしてくれた相手に申し訳なく、と云うか、失礼だ。その一方で、インパクトのある手描きのレタリングとか、「レタリング」と呼ぶのも憚られる殴り書きみたいな手描き文字だと、驚き、タイトルも憶えるショック症状が出る。近頃の例は、花輪和一さんの『赤ヒ夜』だ。驚き、憶えるどころか、買ってしまった。

今のように数多のフォントが身近に存在する状況だと、さすがに「フォントを一目で云い当てる厄介な症状」は治まり、そもそも、これほどフリーのフォント種が増えてしまっては、印刷業にでも関わっていない限り、云い当てたくてもムリだ。けれども、「インパクトのある手描きのレタリング」で書かれたタイトルに目を奪われて釘付けになる症状は全く治まる様子がなく、思うに、それは学生時代を通じて、まるで何かの刑罰かと錯覚するほどレタリングを強要され、提出する課題に記す学籍番号と氏名までレタリングで書かなければ課題の受理を拒否されると云う、苦行みたいな環境下に数年間も監禁された後遺症である。自分の学籍番号を生年月日なみに今でも即答できるのは、後遺症の一部かと思う。

かような「不治の病」みたいな症状を抱え続けていれば、花輪和一さんの『赤ヒ夜』の表紙に目を奪われるのも仕方がない。花輪さんが漫画雑誌『ガロ』でデビューした際の作品『かんのむし』を含む16作品に加え、赤瀬川原平さんによる解説文まで収録された贅沢な本だが、しかし何より先ず、表紙に大書された手描き文字の『赤ヒ夜』に目を奪われ、手に取ってマジマジと表紙を見つめたら、人物の背景の赤塗りの部分に薄い橙色の文字でビッシリと般若心経が、やはり手描きで記されており、それは立派に達筆な写経と呼んで差し支えなく、その場で目が釘付けにもなろうと云うものだ。流麗な筆跡の般若心経など見せられたら、三蔵法師でなくとも持ち帰りたい気分になるではないか。

収録作品『かんのむし』の冒頭には、障子を蹴破る子どもの姿が描かれ、その脇に「私は幼い時 かんのむしと いわれて いました。」と活字が組まれ、絵の上部に手描きで黒々と大きく『かんのむし』と表題が記されているが、その手描き文字が、どう説明すべきか、ともかく「子どもの夜泣き、疳の虫」を字にすればコンナ感じに違いないと納得してしまう書体で、ぜひ「宇津救命丸」のロゴも、これくらいのインパクトを持って欲しい。そんなことをツラツラと考え、映像編集の共同作業へ出掛け、エンドロールのクレジット表記の書体をどうするかと云う話題になり、自分が口走った台詞は「ヒラギノ角ゴでイイよ」である。怠慢ではないとすれば、フォント名をつい口走る発作だ。

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