Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

拾い読み ―アルマイトの栞 vol.90

2011年もTetra Logic Studioを宜しくお願いします。年末、どうにか駆け込みで半村良さんの公式サイト「半文居」が開設し、「半文居」公式ツイッターも稼働。ちなみに、「半文居」とは半村さんが御自身の事務所に付けた名前である。それはともかく、公式ツイッターは半村作品からの引用を数人の担当者が選んで「つぶやき」として投稿するので、そうなると「つぶやき」のネタを探して半村作品を読むことになり、既に読み終えた作品も再度「ネタ探しの目」で読み直す必要に迫られる。明らかに「拾い読み」だ。その行為が何かに似ていると思った。「作者の気持ちを最も的確に表している一文を抜き出しなさい」。今さら国語の試験を受けてどうしようと云うのか。

ネタになりそうな一文を探して、取り敢えずは『戦国自衛隊』や『石の血脈』あたりから拾い読みを始めた。文章の中から気になる一文を見つけ出そうとする時、文章全体の内容にあまり注意を向けない方が好いのではないかと思う。とくに小説などの物語の場合、ストーリーにのめり込むと、一文だけの存在には目が向かなくなる。だからなるべく、一文一文に目を向けて読み直そうとした。しかし、これがなかなか難しい。まだ読み終わって間もない『石の血脈』をパラパラと眺めているうちに、気が付けばまた物語にのめり込んでしまう自分が居る。結末を知っているだけに、最初に読んだ時とは違う気持ちで物語の中にハマり込んでしまうのだ。主人公に向かって、「それは罠だぞ」などと呼びかけたくなってしまう。一文が見えない。

高校3年生の時、強制的に受けさせられた某予備校の模擬試験のことだ。国語の古文の問題に一つの物語が掲載されていた。たしか、「出典:『宇治拾遺物語』」と書かれた短い説話で、蛙が人と同じように二本足で立って歩きたいと神仏に頼みに行く話だった。笑い話である。静まりかえった試験会場でその話を読み、吹き出しそうになった。どうにも笑いが堪えきれず、咳き込むフリをして手を口に当てた。かなりな時間、そうして笑いを堪えていたが、自分と同じような状況に陥っている受験生は会場に一人も居ないようだった。「なぜ、これを読んで誰も笑わないのか」と思った。他の者たちはそれを「問題文」として見つめ、冷静に向き合って居たらしく、それは受験生として極めて正しい態度である。その態度を取れない自分がどうかしているのだ。試験が終わって帰宅する途中、神保町の三省堂に寄り道して岩波文庫の『宇治拾遺物語』を買った。受験生失格である。

気になる一文を物語の中から拾い出すためには、「受験生の眼差し」が必要かも知れない。となると、ストーリーを愉しんだり、書かれた内容に感銘などを受けるのは論外である。半村良さんの短編に『ボール箱』と云う作品があって、紙のボール箱を主人公にした少し切ない話らしい。「らしい」と書いたのは、自分がまだそれを読んでいないからだ。そして聞くところによると、その『ボール箱』が某予備校の国語のテストに問題文として使われたそうだ。そのテストを受けている受験生が、出題された物語を読んで試験中にシンミリしてしまったらコトである。「ハンカチが手放せませんでした」。そんなことを解答欄に書くべきではない。ふと思い出したのは、高校時代に国語教員が教壇で熱弁したコトバだ。「入試の国語で高得点をマークするには、本文を一切読んではいけない」。しかし、半村作品を勝手に捏造して「つぶやき」にするのはますますイケナイ。「完璧な拾い読み」。速読術よりも怪しげな技術を身に付けるしかない。

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